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新そろ新聞第165号令和2年1月号

2019年12月20日
広報誌

「明治維新の改革につながる話と露和辞典の驚くべき話」

サンプロジェクト熱血職人 中村太志さんのお手紙より

横浜の生麦事件→英国が薩摩藩に賠償金の請求→薩摩藩支払いを拒否→英国艦隊が薩摩錦江湾へ 薩英戦争勃発→薩摩藩の勝利→勝利したものの英国の技術力に目を見張る→薩摩藩、英国へ留学生を送ることを決める→禁を破るため人目につかないところより極秘留学生19名を英国の船に乗せる→航行中、アジア諸国で植民地の悲惨さを目にする→英国についた学生たちは驚くべき早さで英国の技術を吸収する→帰国後、明治維新の改革を推進する大きな力となる。参考:日本の近代化 鹿児島県いちき串木野市羽島 薩摩藩英国留学生記念館

続き 薩摩藩の極秘留学生英国派遣は1865年、今から154年前、この留学生たちが出航した「羽島」にはもうひとつ外国にまつわる話がある。とのことで驚くべき内容が書かれていました。それは1739年の話で、先の英国留学生より126年も前、今から数えると280年も前の話です。ロシア帝国の首都サンクト・ペテルベルグで世界初となるロシア語日本語辞典が作られたのです。収録語彙数12000語、280年前ですから全て「手書き」です。作者は「ゴンザ」。英語に置き換えると最高峰の英検1級に合格する語彙数。

徳川第8代将軍吉宗公の時代に膨大な語彙数を収録した露日辞典がどうして遥か遠いペテルブルグ、日本からすれば地の果てとも言えるところで作られたのでしょうか?

それは「ゴンザ」が日本人だったからです。そのゴンザの存在がわかったのは、つい60年ほど前のことで、それから研究者の方々によって辞典や史実の調査研究が行われ、明らかになってきたのは次のような経緯でした。

1728年(享保13年)11月8日、ゴンザは若潮丸という交易船に乗り込んだのです。乗組員は舵手であるゴンザの父親をはじめ全部で17名、薩摩藩の命を受け、大阪の薩摩藩屋敷に物資を運ぶためです。この時、ゴンザは10歳。これが初航海、父が航海術を教えるために乗せたようです。ゴンザが作った露日辞典の発音は全て薩摩弁で書かれていたとのことです。 若潮丸は季節外れの台風に襲われ、船は壊れて難破、海上を漂流、なんと翌年の6月7日、7か月後にカムチャッカ半島のロパトカ岬に漂着、(グーグルの地図で確認下さい)7か月にも及ぶ漂流、全員が生きていたのが奇跡です。ところが上陸して3週間後、コサック兵と先住民に襲われ、船と積み荷を奪われた上、乗組員17名のうち15名が殺害されたのです。残ったのは二人、11歳のゴンザと36歳のソーザ、二はコサック兵の隊長の奴隷となり、過酷な労働を強いられたのです。2年後、首都より役人がやってきて、蛮行を聞きつけるや隊長を処刑し、二人は保護されたのです。1731年のことです。二人は1万㎞も離れた首都ペテルブルグに連れて行かれたのです。到着は1733年、2年がかりの旅です。ゴンザ15歳、ソーザ40歳になっていました。翌1734年キリスト教の信条を学ばせるために二人は修道司祭の元へ、この時ゴンザはかなり流暢なロシア語を話していたという。翌1735年、ロシア語の文法を学ばせるために神学校へ、続いて科学アカデミーへ、学者たちの下で勉強されるためです。そして翌1736年皇帝の勅命により二人は日本語学校へ送られて日本語教師となったのです。ゴンザのロシア語能力が卓越したものであったことと、二人が日本語を忘れないようにするためにその任務が与えられたのです。

同年9月29日、ソーザが世を去ります。ソーザ43歳。ゴンザ18歳の時でした。

その11日後から、ゴンザは露日辞典の制作に取りかかります。ペテルベルグに来てからのゴンザの役割は、主要な文化と言語を学ぶことでした。ひょっとしてゴンザに露日辞典を作らせることは、初めから皇帝の目的であったのかも知れません。

実はペテルブルグには日本語学校がすでにあったのです。できたのは1705年、ゴンザたちよりも30年程前になります。伝右衛門という日本語教師がいたのです。伝右衛門は大阪の商人で1697年にカムチャッカ半島に漂着し、原住民に殺されそうになっているところを助けられ、モスクワを経てサンクト・ベルグに連れてこられたという。サンクト・ベルグ航海数学学校の中にあったのがロシア初の日本語学校とのことです。しかし辞典のような有形のものは残っていなかったようです。そこで形として残る辞典を作る必要があったようです。そこに現れた適任者が卓越した言語能力を持つゴンザであったのです。

ゴンザにとって、ソーザがいなければ母国語の記憶は急速に失われてゆきます。時間との闘いでした。そうして作られたのが、1.項目別露日単語集1736年、2.日本語会話入門1736年、3.簡略日本文法1738年、4.新スラブ日本語辞典1738年、5.友好会話手本集1739年、6.世界図鑑ロシア語日本語対訳1739年。これが世界で初めて作られた6冊の露和辞典集です。

そして6冊目を完成させた後の1739年12月15日、ゴンザはこの世を去ります。21歳の若さでした。

 

この文章を読んで、このような事実があったことに驚いてしまいました。

ゴンザが命を削って完成させた6冊の露和時点集は220年の時を経て日本の学者に寄って発見され、それからというもの、ゴンザの研究や当時の古い言語の研究資料として役立てられています。ちなみにゴンザは権左衛門、ソーザは早左衛門だったと考えられています。それにしても10歳で船に乗ったゴンザは教育を受ける機会もそうあったとは思われないのに凄い実績を残しました。人間の持つ可能性に驚くばかりです。

 

 

令和元年12月18日

 

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